先日、NHKのドキュメンタリー100カメ「“余命”と向き合う人 人生の残り時間を意識する人たちの日常に密着 」を見た。
ガンで余命宣告を受けた方々の日常を淡々と追ったドキュメンタリーである。
日常の多くは粛々と、穏やかに進んでいる。司会のオードリーのコンビも淡々と最低限のコメントに徹する。
結婚したばかりの妻の余命が短いという事実をちゃんと受け止められない夫。
"お父さんの余命"の意味も分からず、無邪気に父の料理にダメ出ししたり甘えたりする幼い子。
できる限り何かを残そうと自費出版の準備を進める人。
みな、淡々と日常を送っている。
1分1秒が貴重なのだ。
「丁寧な暮らし」だとか「映え」だとかが入る余地はない。
何げない日常が愛しい。
自分にとって、自分の死は、ただ意識が消えるだけのことである。(その経過にはそれなりの苦痛がありそうだが(嫌だ
一方で僕の死は、妻にとっては夫の死であり、子どもにとっては父の死である。老いた両親にとっては子どもの死である(出来るだけ避けたいことだ。
独身時代のような友人関係は今はほとんど残っていないが、それでも仕事の同僚とか顧客や、あるいは挨拶するご近所さん、子供の友達の父母までさまざまな関係があり、僕の死によってそれらが終わることになる。
養老孟司は上記を「死には3種類ある。一人称の死、二人称の死、三人称の死だ」とまとめた。
テレビを通じて「"余命"と向き合う人」たちを、一方的にではあるが、知ることができた。
彼・彼女らの死(現時点でまだ存命の方も!)は、僕にとっては三人称の死となる。それでも、彼らを(一方的に)知ったことで、僕の何かが確実に変わった。死とはそういうものなのだ。
僕の死にも、やはり意味があるに違いない。何かを残すに違いない。
僕が死んだ時、そんな二人称関係や、三人称関係に何が残るだろうか?
彼・彼女らが僕を忘れるまで、僕はどのような記憶として残るだろうか?
三人称の死だってそれなりに強烈な何かを残す。二人称の死では何十年も僕の記憶が残り続ける可能性がある。
死んだら何もなくなるんだから、どうだっていいや。とは思えない。
今はよく分からないけれど、とりあえずは生きてる間にできるだけ、自分が見た美しいものを残したい。それがEM-1 Mk II を買った動機の一つだったのかもしれない。そんなことを思った。