sakanatonikuの日記

料理、アニメ、映画鑑賞と耳コピDTM

ゆるいアニメ

"はてブ"で定期的に

「年をとってから昔楽しんだ趣味(アニメ、ゲームなど)が面白くなくなった」

という"増田"エントリや書き込みがある。

 

アラフィフになってアニメに取り組み始めた僕だが「くだらないww」などと思いつつ普通に楽しんで見ている。いろんなアニメがあって面白い。若い頃にアニメを熱心に見て、アラフィフになって再度見直したとしたら、こうはいかないと思う。

 

年を取ったら面白くなくなる感覚を、村上春樹が「ダンス・ダンス・ダンス」でうまく表現していた。中高生の頃にロックを聞いて心の底から感動していたのに、大人になると色褪せてしまう。その現象についての(いささか辛辣な)心理描写である。

 

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人の傾向は年を取ってもそこまで変わらない。人は普通「自分は一貫して自分だ」と思って生きている。昨日の自分と今日の自分は同じ。数年前の自分も自分だ。子どもの頃の自分も、かなりの程度で今の自分である。感覚的には中学三年の「僕」とアラフィフの「僕」はほぼ地続きだ。あまり成長していないといえるかもしれない。

 

でも、アラフィフの僕は中三の僕より虚構作品を楽しめない。

 

振り返ってみると、子どもの頃にはフィクションの世界に全身でコミットしていた気がする。体と心を無防備に預けていた。ケチをつけようなんて思わなかった。フィクションの中に自分の大事なものや心を震わせるものを積極的に見出して、心の中に大事にしまっていた。

 

(ちなみに今回の写真は、去年原宿あたりのドールショップで撮影したもの。)

(散歩中に何気なく入って驚いた。撮影可だったのは言うまでもない。)

 

年を取ると世の中はわりとクソだと思うようになる。批判的になる。期待もしなくなる。夢も希望もすり減ってくる。そしてフィクションに全身を預けようなどと思わなくなる。フィクションは夢や希望と表裏一体なのだ。

 

希望するだけでは給料は上がらない。フィクションではなく、仕事や現実にコミットしなければ。そうやってオトナは現実から乖離した虚構の世界から、徐々に距離を置いていくのだと思う。

 

しかし、現実社会がクソであるとすれば、そこに真剣にコミットするのはちょっと馬鹿馬鹿しい。フィクションを楽しんだところで損することもなかろう。と思い始めたのが今年。

 

なにより現実だけ見ているとどうも精神衛生上良くない。始終国内外のニュースにばかり接していれば鬱まっしぐらである。バランスを取るためにも積極的にフィクションを見て、敢えてそこに自分を放り込んでいる。

 

そして気が付く。人はフィクションを生きているのだ、と。プーチンのフィクション。ネタニヤフのフィクション。日本の政治家が生きるフィクションもある。話が重くなり、かつズレるのでここは一旦終了。

 

(妖しい。)

(値段は書いてなかったような。相当高価な雰囲気だ。)

 

アニメの話だ。

 

2000年以降くらいから、ぐっと質が上がったような気がする。なんの根拠もないが、僕の印象ではそうなる。

 

大学生の頃にエヴァンゲリオンをリアルタイムで見た。その頃には僕は厨二病高二病を卒業していた。ドイツ語やキリスト教を援用した思わせぶりな概念と世界観を、冷ややかに見た。屈折思春期シンジくんの描写にもさほど共感しなかった。ガンダムの昔からロボットアニメをなぜか好まなかった。それでも傑作アニメだと分かった。これが刺さらないんだったら、もうアニメは卒業だな(ジブリ除く)。何見てもダメだろう。そんな風に思って、序盤で視聴をやめた。

 

だから、2000年前後〜2023年まで(子供と見たドラえもん、ディズニー、プリキュア等、そしてジブリを除き)ほぼアニメに触れなかったのだ。もちろんラノベ文化もスルーである。

 

今は、2000年以降のアニメが新鮮で面白い。ラノベも興味深い。僕が記憶する子どもの頃のアニメより、質も高く、量も多い。それに手を変え品を変えというか「よくもこんなの作ったな」というニッチなエリアがあり、さらにそこをエグってくる。アニメという抽象的なエンタメに人が注ぎ込むエネルギーと欲望は相当なものだと感心する。

 

(ドールが趣味の人は、話しかけたり着替えさせたりしているのだろうか。)

(子どもの頃、人形遊びが好きだった人には危険な領域ではないか。)

 

最近「味わい深い」と思い始めたのがいわゆる「日常系」アニメである。

 

具体的には以下である。その筋の人からは「日常系」じゃないものがある、などと怒られるかもしれないが無視する。順不同。

たまこまーけっと

小林さんちのメイドラゴン

「日常」

「WWW.WORKING」

ゆゆ式

ご注文はうさぎですか?

みなみけ

ゆるキャン△」「それでも町は廻っている」も入れておく。「日常系」グレーゾーンは裾野が広いと思う。

 

アニメを見始めた当初だったら「なんでこんなの作った?」と疑問に思って即座に視聴を打ち切っていた作品もある。今は疲れた時に、無になりながらこれらを流している。

 

どうやら、鬱っぽい気分の時にこういうアニメが都合がよいのだ。

 

元気溌剌だったらとても退屈で見られない。体力があれば岡田麿里氏関与のアニメを楽しめる。濃くて熱い脚本を受け止めるためには、相応のエネルギーがいるということだ。

 

と思ったら、はてブでタイムリーな記事を見た。シロクマ氏は多分僕と同世代である。

 

元気のない時は気に入ったアニメの再視聴する - シロクマの屑籠

 

再視聴も確かによさそうだ。筋書きがわかっているから、心を乱されることもない。岡田麿里氏脚本でもイケそうな気がする。

 

(そうでない人も、うっかりハマったりするのだろう。)

(別の世界を垣間見たのだった。)

 

どこかで「激務を終えて深夜に疲れて帰宅して、何気なくテレビをつけた時、日常系アニメがたまたま流れていると、大変癒されたものだ」という書き込みを見た。

 

ロクでもない日常を終えて、ようやく辿り着いた家でテレビをつける。そこに映る深夜アニメの「日常」が、すなわち癒しの「非日常」となる。なんだか、すごく分かる気がする。