sakanatonikuの日記

料理、アニメ、映画鑑賞と作詞作曲(趣味)

アニメ中毒

ドロヘドロ」13エピソード見終わった。面白かった。今は「鬼滅」「スキップとローファー」「異世界おじさん」などを追っている。他にも見たい作品が待ち行列に入っている。ほとんど中毒である。もちろん、タバコやギャンブルなどと比べれば随分健全である。

 

「学生時代にアニメやゲームに没頭したが、社会人になったらその暇も気力もない」などという話をたまに見かける。アラフィフのおっさん=僕だがリモートワークのおかげで暇と気力は残っているようだ。

 

いい歳したおっさんがアニメを消費して過ごすとは無益だな、などとは全く思わない。アニメは面白い。面白さは正義だ。子供との会話のネタにもなる。子供(成人済み)もスキマ時間にアニメを見ているらしい。当然父がアニメを見ていることをバカにしない。妻は呆れているようだ。しかし、寝不足になりながら毎夜韓ドラを見ていた輩が何を思っても気にならぬ。

 

思えば僕が子供の頃に、アニメを見下していた大人が何を見ていたかといえば、下らないワイドショーだったりさほど上品とも言えぬドラマだったり後に疲れしか残らない映画だったり。無条件にアニメが下等でドラマが上等なわけはない。一級のアニメはやはり一級のエンタメだ。作品の形式の問題ではなく、それを作る人の才能の問題である。

 

なぜ、一般にアニメが一段下のエンタメと見なされるのか?(そういうことにして話を進める)

 

アニメは、それを見る側にも想像力を求める。登場キャラクターは線画にベタ塗りしたセル画のコマ撮りである ※。そんなキャラクターが空を飛んだりワンパンで巨大怪獣を吹っ飛ばしたりとんでもない動きをするかと思うと、ボケとツッコミの演出は結構ワンパターンだったりその表情は典型的デフォルメだったり。ただボケーっと見ていればリアリティが勝手に迫ってくるものではない。見る側で想像力を膨らませ、肉付けし、実在感をキャラに投射して楽しむ必要がある。

 

※ 最近はグラデーションが動いたり立体的に動いたりもする。効果的に使っているアニメは良いものだが、3D CG中心となると却って感情移入しにくいようだ

 

自分の想像力に応じて様々な「濃度」で楽しめるのは、アニメの良さの一つではあるが、前提として最低限のコミットが求められる。「このアニメ好きじゃない」「おっさんがアニメ見るかよ」と決めつけてしまえば終わりである。面倒臭くなってアニメを馬鹿にしたり、積極的に見ない人もいるはずだ。

 

少なくとも数年前の僕がジブリ以外のアニメを積極的に見なかったのは、面倒臭かったからだ。ちょっとズレるが「聖地巡礼」もその一つであろう。「おいおい暇か?」である。今なら分かる。リアリティを補完するために、実際にそこを訪問して空気を感じて楽しむのだ。アニメの世界観を体を使って構築しているのだ。運動にも気分転換にもなる。行った先でお金も落とす。良いことばかりである。

 

また、生身の人間が実際の風景やセットの前で演じる実写動画と異なり、アニメが提示する世界観では「余白」が豊かだ。例えば寅さん映画にトトロを登場させるわけにはいくまい(どんなに上手くやってもダメだ)。あの団子屋の中と前の人通りを見ればリアルな(ちょっと美化された)昭和の東京下町がたちまち広がる。トトロが出る余地はない。しかし、アニメの世界にひょこっと寅さんを出しても(上手く出せば)全く問題ない。作る人の才能と見る人の度量次第である。いろんなことが起こり得るのがアニメの世界である。

 

それから「声優が声を当てる」のも言わずもがなのアニメの本質的特徴である一方で、声優の演技とキャラに違和感がないアニメは稀である ※。大抵いくばくかのズレがあって、見る人が補正する必要がある。ドロヘドロの二階堂はもう少しハスキーボイスが良いのでは?炭治郎はちょっとオーバーアクト?チェーンソーマンのパワーはもう少し太いしっかりした声の方がよかったな。とか。ちなみに胡蝶しのぶは始めは違和感があったが次第に「胡蝶しのぶはこうでなくてはならぬ」と感じられて面白い。炭治郎然り。見ている方の慣れというより、キャラの方から声優に寄せていくような(あるいは逆)不思議な感覚である。

 

※ 旧ルパン三世、旧ドラえもんあたりは「それ以外はあり得ない」声に思える。幼少期の刷り込み効果は絶大だ。

 

アニメを楽しむのは少し面倒臭い作業なのである。最低限の能動的な解釈、場合によっては補正が必要となる。クリエーター、アニメータへの敬意と忖度?も必要だ。それなりに心の余裕がないと楽しむのは難しい。

 

アニメはちょっと「付き合うのが面倒臭い」表現形式で、だから「大人」はアニメを避けるようになるのだろう。仕事で時間がなく、精神的にも疲れてアニメを楽しむ余裕がないわけだ。人によっては馬鹿にして済ましてしまう。それでいいのか?いいわけはなかろう。司馬遼太郎は「私は宮崎駿の映画を見て子供の心を思い出す。創作には子供の心が絶対に必要だからだ。それを軽んじる大人を私は信用しない」旨を語っている。歳をとってフィクションの世界から離れ、世の中を理解したつもりになってテレビやネットが提示するどうしようもない「リアル」ばかりに触れていると、鬱病まっしぐらではないか。と以前から薄々考えていた。歳をとってからアニメに取り組むのは、精神衛生上とても有益に違いないのである。