sakanatonikuの日記

料理、アニメ、映画鑑賞と作詞作曲(趣味)

「砂の女」を見た

歳をとったので、コンテンツ(読書や映画、音楽)を楽しめなくなった。と思っていた。

 

このブログを書いているうちに、その詳細を自己分析できた。

 

OM-D EM-1 Mk II 三浦海岸

 

一つは「昔はよかった」というバイアスであった。 若い頃に「名作」を見た衝撃、その(美化された可能性のある)記憶と比較して「今の作品はどれもイマイチだね」と勝手にがっかりしていたのだ。

 

二つ目は「歳を重ねて多くのコンテンツに触れてきたオレは目が肥えているので、判断は的確である」という無意識の思い上がりだ。否定的な判断(傲慢なダメ出し)が速くなり「オレは目利きだから」とその判断を補強する。実によろしくない。

 

OM-D EM-1 Mk II 三浦海岸

普段の僕は決して思い上がっていないつもりだし、思い上がったおっさんはかっこ悪い!と思っているし、できるだけ謙虚にしたいと思っている。つもりだったが、どうやら密かに思い上がっていたようだ。恥ずかしい限りだ。

 

三つ目は「オレの好みはオレがよく分かっている。今さら新しいチャレンジは時間の無駄だ」という思い込み。なろう系とかジブリ*以外の*劇場アニメとかアメコミ原作の映画など時間の無駄だ、というわけだ。

 

そんな思い込みが僕をコンテンツから遠ざけていたのだ。

 

OM-D EM-1 Mk II 三浦海岸

一つも意識的なものではない。無意識に近い思い込みに気がついたのは、文章を数日かけて、推敲しながら書いたおかげである。

 

「オレは経験を積んだのだ」とか「昔すごい傑作を見たんだぞ」というくだらない思い込みは忘れよう。過去の有名監督や「傑作」を無条件にありがたがることもない。「根拠のない思い込み」や「偏見」、「暗黙の了解」をできるだけ頭から掻き出そう。小中学生の頃のように、ありのままの作品とワクワクしながら対峙しようじゃないか!

 

というわけで勅使河原宏監督の「砂の女」を見てみた。(小中学生が取り組む映画ではないけれど

 

GR IIIx 三浦海岸

 

音楽がおどろおどろしいと思ったら、武満徹であった。言っちゃなんだが、今聞くと少し陳腐である。現代音楽なんて恐怖映画のサントラじゃねーの。と書いたのは村上春樹。正しいという他はない。とはいえ、武満の音楽は映画を損ねてはいない。使うポイントが上手い。音楽自体は悪くない。

 

岸田今日子が妖艶であった。すごい美人に見えたり、冴えない田舎のオバサンに見えたり。この落差はどういうことか。撮影時は30ちょいか。絶妙な年齢である。

 

何より驚いたのが、原作の記憶をこの映画が綺麗に上書きしたことだ。

 

GR IIIx 三浦海岸

小説を映画化すると大きな「取りこぼし」をしたり逆に「無理やり詰め込めました」感が出たり、「似て非なるもの」になりがちだ。その結果、「頑張って作ったの分かるけど、原作ほどじゃないね」あるいは逆に「良い映画だった。しかし原作に忠実じゃないね」などとなる。

 

ところが、この映画をみて「えーと、前に読んだ原作どうだったっけ?」と思い出そうとしても、もはや岡田英次岸田今日子の顔しか浮かばない。

 

強いて違いを言えば、映画の方は現代社会への風刺テイストで綺麗にまとまっているが、原作はもっと不条理感が強かった。それと安部公房のゴツゴツざらざらした文体のテクスチャを除けば、もうほとんど「同じ作品」と言って良いくらいだ。実に忠実な映画化である。

 

しかも映画としても完成度が高い。閉塞感だらけで救いのない映像とシナリオが続くのに、最後にふとそこから解放される。まるで禅の公案のようだ。映画を見終わった後で、自分が少し高められるような気分がするのは、良い映画の証明である。

 

長い映画だけど意外と最後まで退屈しない。安部公房の文章がどうも苦手、とか、あの雰囲気に馴染めない、と「砂の女」を敬遠してきた方も、いや、そんな方にこそ、お勧めしたい映画であった(と言ったらなんだか偉そうだけど)。