大学生の頃、暇で暇でどうしようもなくなって、下宿でゴロゴロするのにもうんざりした時に、何をしたかといえば本屋に行った。立ち読みしたり、背表紙を眺めたりしながら店内をうろうろした。主な情報源はテレビと紙媒体だったから、ただ待つだけでは欲しい情報が入ってこない。本屋に行くのは情報収集活動であった。
当時はネットで暇を潰すという概念がない。PCやMac(※)を持ってるのは極々少数派だ。SNSどころかブログという言葉もない。そもそもインターネットが一般的ではない。携帯電話など誰も持ってない。固定電話も皆が持っていたわけではない。ああ、すなわち、通信手段がない奴もいた。ノーアポで訪問、扉ノックは日常である。
1990年代前半。
社交的な学生はサークル仲間や友達とつるんでいた。一人の生活を楽しめる学生はマイペースに勉強と家事をしていた。映画好きは金を貯めて映画を見に行った。など。
僕は「親から学費を払ってもらって仕送りまでしてもらってこれじゃ、充実した大学生生活とは言えないな(ツラいぜ」などと後ろめたい気持ちを抱えながら、情けなく本屋に通っていた。僕以外の人がみんな有意義な生活を送っていた(ように見えた)。コンプレックスだらけの青春時代である。
「リア充爆発しろ」というネットの呪詛がある(最近見ないな)。充実したリアルライフを送るような奴らは、もう何とでもなってしまえ、という非難と嫉妬(と少しばかりの称賛)の混じり合った言葉である。
当時はリアルもバーチャルもない。僕のようなインキャ(昔は"ネクラ"と言ったか)は忸怩たる日常の澱みをかき分ける他はなかった。
本屋に通わなくなったのは、いつからだろうか。
グルメ、料理、コンピュータ、カメラ等々、浅くても新しさに価値がある情報が、ネットで手に入るようになったのが転換点だ。本屋に行って情報収集することがほぼなくなった。
それからフィクションを読まなくなった。何度か流行りのフィクションや少し前のベストセラーを手に取ってみたが、読み通すのも難しい。Not for meである。年齢のせいもあるだろう。
先日、久しぶりに特に目的もなくジュンク堂に行ってみた。
この間、ウン十年ぶりに夏目漱石を読み返したら面白かったので、他に読み返せそうな古典文学でも見つからないかと思ったのだ。
文庫本コーナーを隅から隅まで眺めてみた。そして、気がついた。
昔と違って、むつかしい分厚い本に取り組む意欲が一切なくなっている。
かつて若い頃に「いつかは取り組まなければならない」と思っていた多くの本を、アラフィフとなった今、「もしかしたら一生この本を読むことはないだろう」と感じる。食指が全く動かない。
学生時代には「分厚くてむつかしい本」を見ると胸が躍った。
頑張って読み通すことができれば、自分がレベルアップしたような、一段階上の知見を得たような気がするのだ。
自己満足ではない。時代を生き延びた古典文学や、むつかしい哲学書を読むのは、思考と想像力の基礎訓練である。その後の人生を豊かにしてくれる財産となる。
歳を取って見えてくるものもある。
若い頃は何だか恐れ多くみえた学者や評論家も今となっては「象牙の塔の世間知らず」にも見える。難しいことを言っているようで、普遍性のないつまらない意見は珍しくない。事実、ひと昔前の「有名大学名誉教授」や「知の巨人」たちの本はどんどん書店から淘汰されている。売れている本がよい本だ、というわけでもないけれど。
あるいは、単に本が多すぎるのかもしれない。とりわけ、くだらない本が多すぎるのかもしれない。
しかし、それは今に始まった話ではない。
僕が「くだらない」と思う本でも、ある人は楽しんでいるかもしれない。子供の頃「友達は誰もいいとは言わないけど、僕は大好きだ!」という漫画や小説があった。貪るように読み、それを楽しみに生きていた。
「僕は万人受けする名作よりも、例えマイナーであってもそこに『僕だけのために存在するような何か』があるような作品を愛する」
村上春樹は音楽や小説、時に女性について、しばしば上記旨の文章を書いている。実際にしばしば「それ、大した作品じゃないよね」と思えるものを春樹節でもてはやす。有言実行である。
ナイーブで少し傲慢だけど、まあ、そういうことだ。
歳を取っても『僕だけのために存在するような何か』が、大事でないはずがない。
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養老孟司が、本を読む行為を「さまざまな患者が病状を訴えてきている、それを聞き取るようなものだ」と言っていた記憶である。患者の言葉を無碍にはできない。丁寧に聞き取らねば。昔は僕もそんな態度で読書していた。今は「つまらんな。はい、次」と傲慢になっている。
これこそ、歳のせいじゃないか。
歳を取ると自然にこれまで接した一級の映画、本、音楽の記憶が蓄積する。これを新しいコンテンツと比較してしまう。すると、どうしても欠点が目についてしまう。
「ダメだこりゃ。次行ってみよう」とテキパキ消費しているうちに読みたい本どころか、読むモチベーションまで失われてしまったのだ。
丁寧に時間をかけて、つまらない人生を選んでいるようなものじゃないか。
コンテンツにもちゃんと向き合って、それこそ「タイパ」など求めずに、『僕だけのために存在するような何か』を探すべきなのだろう。
気を取り直して、新しい小説、映画やアニメに、真摯に取り組んでみようと思っている。
※ PCとMacを区別するのは古い感覚らしい。昔はMacは特別だった。Macは音楽やCGなど芸術を生産するマシン(アーティストが使う)で、PCはEXCEL、Wordで仕事するものだった(サラリーマンが使う)。すでにアップル・ジョブズ信者がいた。ジョブズを信仰しMacを崇めるユーザが、高いMacを買って何をするかといえば、高価なソフトの海賊版CDROMを収集・インストールして、OSをカスタマイズして喜んでいるだけであった。