ヒドい映画だった。
ヒドすぎて最後まで視聴できなかった。
ある意味では含蓄のある面白い映画だった。考えさせられた。人生について、映画について、フェミニズムについて。
早稲田松竹で「アステロイドシティ」との二本立て。強烈すぎてあの「アステロイドシティ」の印象が薄らいでしまったほどだ。
開始30分。
マリリン・モンロー演ずる主人公は、運転が下手で、おつむが少々弱くて、不幸な自分に酔っていて、男にだらしなくて、素っ頓狂な行動をする、少々タガの外れた女という設定であるな。
・・・っていやいや、流石にそれはヒドい解釈だろう。僕の心が汚れているに違いない。
クラーク・ゲーブル。モンローを眺めてニヤついてるばかりのいやらしいオッサンで、キモさばかり。カッコ良さのかけらもない。
・・・やっぱり、この映画、変だぞ?
マリリン・モンローはクラーク・ゲーブルと出会ったその日、彼と彼の相棒の車に乗り、荒野の一軒家に連れられてウィスキーを飲んだくれ、ラジオに合わせて下品に踊り、ゲーブルの相棒に媚を売り、当然のようにゲーブルと一夜をともにする。実にヒドい展開である。
朝食のシーンでモンローに家族のことを聞かれ、ゲーブルは「娘がいる」と話す。「この間娘にドレスをプレゼントした。ちょうど君と似た体つきだ。君も服のサイズは12号だろう?」「すごい!よく分かるわね!」
バリきも〜。
知り合ったばかりの女を抱いて娘の体と比較するとか考えただけで寒気がする。ってかこのセリフがハリウッドスター映画に出てくる時代って何だったの?
その後、ゲーブルは「西部の男とは!」をモンローに見せつけるべく、野生馬狩りだかロデオだかに向かうのだがその途中の酒場で「あんよが上手!あんよが上手!」とモンローをおだてる喧騒が差し込まれ、僕はもう呆れて席を立ってしまった。
ヒドい映画だったと思いながら外に出ると掲示板に当時の映画紹介記事が貼ってあった。原作・脚本のアーサー・ミラーは、当時モンローの何番目かの配偶者で、離婚直前だったという。それにゲーブルはこの撮影の合間にリアルでもモンローとよろしくやっていたらしいとのことだ(同じく当時の記事より。ゲスい)。
とすればモンローとゲーブルの描き方がヒドかったのも残当である。ミラーは結婚生活を経てモンローを『運転が下手で、おつむが少々弱くて(略』な女と判断したのだろう。ゲーブルを「娘と言ってもおかしくない『おつむが少々』な女に手をだすみっともないオッサン」として描いたのだろう。いやはや。
カメラがモンローを捉える時は、しっかり角度を計算し、ソフトフォーカスなども駆使し、美しくチャーミングに撮影していた。にもかかわらず、ミラーの悪意と共にこの映画を作ってる人たちも、モンローを蔑み見下しているのではないか?という疑念が消えなかった。
背景にはおそらく男性(とりわけ金持ちおっさん)優位の女性蔑視、若くて美しい女性はおっさんの搾取対象だった、という時代性がありそうだ。僕はキャンセルカルチャーとしてのフェミニズムをあまり愉快には感じないのだが、この映画を見て「こういう作品とその背景を思えば仕方ないかもな」などと妙に納得してしまった。
モンローとゲーブルの遺作となったこの作品。ゲーブルの死の間接的要因は、当該映画で老体にムチ打ち、馬とのアクションシーンだかでハッスルしたためという。なんだか哀れな話である。
映画自体は当時の基準でもヒドいものと言えそうだが、現代から振り返れば、前時代的な悲喜劇と解釈することができる。女性蔑視気味のオッサンに見せたら何かに気がつくかもしれない。もろもろ考えさせられる良い映画だったいえよう。