ポプテピピックは虚無になれる。
夕食の準備が終わってコップに安うまワインを注ぎ、ディスプレイの前に座る。どーれ、一息つくか。渋い映画はあとでね。という流れで視聴する。
あとはつまみ食い程度になってしまった。アマプラに興味をそそる作品が並んでいるので、どうしてもアニメは後回しになる。
アマプラでうる星やつら2ビューティフルドリーマーを見た。
一部でカルト的人気を得ながらも、原作ファンからは酷評される作品である。いつか見たいと思っていた。
リアルタイムで高橋留美子の連載とテレビアニメが流れた世代だ。
ジャンプサンデーマガジンの黄金期。もちろん彼女の連載と単行本を読んだ。買わなくても床屋や食堂や友達の家にあった。アニメも見た。原作ファンではないが、うる星やつらの雰囲気を覚えている。とはいえ30年以上前の記憶だ。差し障りはなかろう。
ところが、いきなり違和感を感じてしまった。
諸星も面堂もしのぶもラムもなんか違う。思ったより昔の記憶は強かった。キャラクターたちが自分を押さえて演技をしている印象を受けた。
全体の雰囲気は原作に合ってなくもないが、夢とうつつの認識論を雄弁に語る夢邪鬼は明らかに高橋留美子キャラではない。
というわけで作品を楽しむ前に違和感が邪魔して終わってしまった。
もちろんこれは僕の問題であって、作品の責任ではない。
昔はキャラのリアリティが強かったので、かえってこういうキャラ解釈も一つのバリエーションとして楽しむことができたのかだろうか。(もちろん原作ファンは嫌がっただろうが)
当時の大ヒット漫画を原作として、そのアクの強いキャラを使いながら、原作の雰囲気をかろうじて残しつつ、別の押井守ワールドを語り切ったところがさすがということなのかな、と思う。
時間に従わなくてもよい漫画と、時間にきっちり縛られるアニメ。高橋留美子と押井守の異種格闘技戦と見ることもできそうだ。どちらに軍配が上がったのか。僕的には、この映画のバックグラウンドにある高橋留美子の天才がかえって強調されたような気がしてしまった。