村上春樹によるオウム真理教信者へのインタビュー集「アンダーグラウンド」に、以下のようなことが書いてあった気がする。例によって完全にうろ覚えである。
ハルマゲドンや空中浮遊といったお粗末なナラティブに巻き込まれてしまった若者を見ると、自分がよりよいナラティブを提示できていれば彼らの一部を救えたかもしれないなどとと考えてしまう、云々。
もちろん小説と宗教は別物だ。村上春樹も「なんとなく、そんな気がした」だけだろう。ロジカルに考察して突っ込むのは野暮で、こっちも「なんとなく、その気持ちは分かる」程度に共感しておけばよいのだろう。
なんてことを思い出したのは、「あの花」、「ここさけ」、そして「リズと青い鳥」を短期間に見て、意識がアニメに取られてしまったからである。
どれも濃密で、ドラマティックで、繊細な人間関係を描いた作品である。見せ方も上手く引き込まれる。面白い。しかし、しんどい。
ただでさえ面倒臭い人間関係の葛藤を、エンタメにするのか。
見る方も、現実の人間関係だけで十分面倒くさいのに、さらにフィクションの人間関係まで引き受けるのか。
しんどいなら見るのをよせばいいのだが、面白いから見る。
ちなみに「あの花」「ここさけ」は脚本は岡田麿里で、「リズと青い鳥」の製作会社は京都アニメーション。対象年齢層が高い作品である。(こういう紋切り表現は嫌なんだけど)「大人の鑑賞に耐える」ってやつで、気を抜いてすっ飛ばせるアニメではなく、ちゃんとセリフとシーンを追って見ている。
ところで、「リズと青い鳥」には、安っぽいテンプレ美少女キャラとは違うものの、”キャッキャうふふ”な萌えアニメ的?女子高生描写がしばしば出てきて不思議だ。なぜなら、原作・脚本・監督全て女性なのである。こういう”女子高生”は男性クリエーターが幻想を投影して描くものではないのか。女性クリエーターがこういう女子高生を描くのか。
ということは、リアルでも存在しないわけではないキャラ設定なのだろうか。うちの娘を見てると別のクリーチャーとしか思えないのだが。女子高生の世界は分からない。
まあとにかく、いかに質が高いとはいえアニメである。フィクションである。
たかがアニメじゃないか。
などと侮ってはいけない。おっさんの意識を軽々とどっかに持ってくんだから、確かにフィクションにはパワーがある。
Webやテレビで胸ふたぐニュースに触れていると、時折フィクションに囚われてちょっとアタマがオカシクなるのも、却って健全なことじゃないかとも思う。
それなりに知性と経験のある人があっさり怪しげな陰謀論にハマったり、学者だとか医者だとか頭のいいはずの人が変なことを言い出したりと、Webでは不思議な事例をよく見かける。
そういうのを見て、人はファクトを生きるのではなく、ナラティブを生きるんだよな。などと思う。
アニメよりも現実の方が出来が悪い、と感じることも少なくない。独裁者、極右、極左、宗教右派のナラティブは出来が良い悪い以前に、危険である。
思ったよりも混沌としているのが現実だ。世界はノンフィクションなどではなく、出鱈目なフィクションが侵食しているのである。