sakanatonikuの日記

料理、アニメ、映画鑑賞と作詞作曲(趣味)

波乱の年越し

実家が北陸である。というわけで、帰省中に震度5弱を経験した。

 

揺れ方は3・11と「似たような感じ」だった。前回は東京でビルの高層で仕事中、今回は木造二階建てでまったり中だから単純に比較はできないけれど。ただ、余震に関して言えば3・11の方が個人的にはエグかった気がする。

 

一番揺れた時は頭上に注意しながら食器棚を押さえていた。大型で重量感もある。棚ごと倒れる恐怖は感じなかった。他の重い家具もほぼ動かなかった。コーヒーポットなどが入ったサブ食器棚の扉が揺れで開いたけれど、中からものが飛び出さなかったのは幸いである。食器棚の中で茶碗が倒れたり移動したりしていて、揺れが収まった後にうっかり扉を開けたら、隙間から茶碗が一つ落ちて欠けた。

 

結果的に実家の重めの家具(大人一人では簡単に動かせない程度の家具)は震度5弱程度では動かなかった。阪神大震災ではピアノが吹っ飛んだと聞いた記憶だ。慄然とするばかりである。

 

追記)ニュースでおそらく震度6以上の家庭でのスマホ動画を見た。タンスは即座に倒れ、人は立っていられない模様だ。震度5弱とはレベルが違う。

さらに追記)一週間ほど後に母から「ピアノがそれなりに移動してたので人を呼んで戻してもらった」とLINEが来た。

 

本震の時には母はテレビを押さえていたが、孫に叱咤され、余震の間は孫と一緒にダイニングのテーブルの下に潜った。ニュースで同じようにテレビを押さえて堪えるおじいさんが写って変に納得した。父は風呂掃除中で、風呂の水がユッサユッサと揺れて驚いたそうだ。

 

父母は表面的には比較的冷静だったものの「こんな揺れは初めてだ」と驚いていた。一方で僕の体はこの揺れ方を知っていた。「そうそう、これだよ。こんな感じ」である。当然のように余震も受け入れる。体が記憶するとは面白いものである。

 

実家の被害は前述の茶碗と仏間の漆喰壁が少し欠けた程度だった。ライフラインも問題なし。数キロ離れた場所では断水が起こっていた。ちょっとしたロケーションの違いでいつもの生活が送れるかどうか、大きな違いが出た。

 

 

 

時折余震が来る中、いつまでもテレビを見ているわけにも行かない、とおせちとお酒を頂いた。夕食中には余震を2回ほど感じたと思う。テレビには能登の避難所の様子が映る。さぞ寒いだろう。せっかく用意したであろうおせちも食べられないはずで、大変気の毒に思う。思っても仕方がないとおせちをつつく。逆の立場でもありえた、ということである。

 

東京に戻る駅は長蛇の列であった。長時間並んでいる人は比較的落ち着いていたが、後からやってきた人は「なんで進めないんだ。改札の向こうは空いてるじゃないか。なんで入れないんだ」と殺気立っていた。早くからいると何となく情報が入り状況がわかり、諦めがついている。後から来た人は、情報がなく、状況がわからず、焦っている。そらそうなるわな。

 

かくいう僕も決して始終冷静でいたわけではない。時々流れる場内放送に神経を集中しているときにJRの若手社員が拡声器で「らー!がー!ららー!らー!」と喚き始めてどちらの話も分からない。こんなことが2、3回繰り返されるうちに本気で腹を立ててしまい「オメーがうるせえんだよ!行って注意してやろうか!」とイライラしていたら子供に「落ち着け」とたしなめられた。子供の方が冷静である。歳をとると傲慢かつ短気になっていけない。「怖いおっさん」になってはいけない。猛省である。

 

駅の様子を振り返れば、やはり9割以上の人は大人しかった。殺気立っていた人もぶつぶつイライラしてるだけで怒号を上げるわけでもない。後ろから押す人もおらず、割り込む人も目にしなかった。見た目やんちゃな若者たちがいて、何かやらかすかな?と眺めていたらちゃんとおとなしく順番を守っている。

 

やはり日本では簡単に集団が暴徒化するとか、略奪が始まるとか、そういうことはないと思った。同日の羽田の痛ましい事故でも、旅客機側で死者が出なかったのも単なる「不幸中の幸い」というより冷静にスタッフと乗客の皆さんが動いた結果だろう。素晴らしいことである。やはり冷静が一番だ。

 

とんでもない地震で始まった令和6年だが僕の周りだけ見れば「比較的無事に切り抜けた」結果になった。もちろん、これはあくまで「たまたま」であり、そうでないことも十分にあり得たのだ。先ほど珠洲市氷見市に2024年のふるさと納税を実施した次第である。今年も心せねば。