sakanatonikuの日記

料理、アニメ、映画鑑賞と作詞作曲(趣味)

アニメの効能

僕はヒョーロン家やヒヒョー家が嫌いだ。

 

 

これまで何気に色々読んできたが、心に残ったヒョーロンやヒヒョーはほとんどない。そもそも本質的に価値がないものとすら思う。嘘だと思ったら、30年前の書店と今の書店の棚を比べたら良い。かつての有名ヒョーロン家たちの書籍はほぼ絶滅である(※)。アリストテレスの「詩学」くらいだろう。

 

先日とある映画批評サイトで「君どう」のヒョーロンが目に入ってしまった。100点満点中55点。

「ところどころ良い映像表現はあるがこれまでの焼き直しだ。ストーリーも不明」

など、公開初期にWebで見かけたような雑な評価が書いてある。おざなりである。不愉快である。ちなみにこの人は「ゴジラ−1.0」を絶賛していた。いや待てよ。ゴジラこそ焼き直しの最たるものじゃねーか。

 

 

大体「焼き直し」「マンネリ」云々言って批評した気になっている人は、まともに芸術に取り組んだことがないのだ。年老いてからも新しいスタイルにチャレンジするクリエーターはごく少数で(ベートーベンとかピカソとかマイルズ・デイビスとか)それでも失速することが珍しくない。晩年のベートーベンも音楽のマンネリスタイルたる「変奏曲」に傑作がある。反復は芸術の糧である。ゴジラだってそうじゃないか。クリエーターはモチーフを繰り返し深化させていくもので「マンネリ」と評してとどまるようでは芸術を分かってない言われても仕方がなかろう。

 

まあ、この人の考えていることは分かる。

 

 

例えば僕にとっては「君どう」をリアルタイムで鑑賞できたことだけでありがたい。ジブリの作品とともに青春時代を過ごせたことがありがたい。大人になってからもジブリの作品は僕に魂の滋養を与えてくれた。「君どう」は宮崎駿の集大成である。衰えも感じなかった。素晴らしい作品であった。

 

要するに思い入れである。僕にとって100点を超えてくる作品が、思い入れのない人には「うーん、55点」となる。

 

先日「君どう」の絵コンテ集を購入し、映画を反芻しながら「これはどういうことだろう」「なぜこうなったのか」などと骨までしゃぶろうと楽しんでいる。「55点」の人にとっては「55点」の映画に過ぎない。悪口を書いて少しは気が晴れたか。健全なのはどちらなのか。

 

 

この人の絶賛したゴジラ−1.0だって「うーん、45点ww」と腐す人もいるはずだ。「今さらゴジラかよ。怪獣が東京破壊ww。何度壊すんだよww」くだらないと思ったらおしまいである。上から目線はエンタメに取り組む態度ではない。

 

アニメに取り組み始めて、強く感じるようになった。無意識に馬鹿にしてから取り組んではいけない。まずはどんな作品にも真面目に、真剣に取り組む。例えくだらない(と思えた)なろう原作アニメも萌えアニメも、真剣に見れば面白さも教訓もある。そして以前まで韓ドラを馬鹿にしていたことを反省するのである。誠にごめんなさい。

 

 

もう一つ、この人から感じたのは「大きくなればアニメは卒業すべきである」という古い偏見だ。アニメは子供向けの一歩劣った芸術であり、大人が真剣に取り組むべきではない。そう思い込んでいるようだ。下衆の勘ぐりだろうか。だとすれば、どうしてこれほど雑な評価を書き散らせるのか。

 

ゴジラを絶賛し「君どう」をイマイチだと断言する。ヒヒョー家というのは面倒臭いものだな、と思う。どっちもフィクションじゃねーか。人が一生懸命作ったものを何のために雑に腐すのか。映画に対する愛はあるのだろうが、その裏返しに強烈なルサンチマンもあるに違いない。

 

 

人が作ったものにケチをつけるのは楽しい。自分が賢くなったように思えるし、気分も楽になる。しかし、そんなことを続けてると、まあロクなことにならない。凡庸で退屈でつまらなくて話すと不愉快な人間になるだけだ。くだらない(と思える)作品に真剣に取り組むことは確かに面倒で疲れる作業だ。でも一生懸命悪口を考えてドヤ顔で公開するより、一生懸命アニメを見る方が、どうしたって有意義な行為なのである。

 

ともかく、ゴジラ−1.0は見に行こう。うん。

 

(※) 柄谷行人の本はしぶとく残っているが時間の問題である。あれはもはや創造性とかのあれではなくグムム(悪口封印