今年は作曲の量を増やそうと思っていた。ひと月一曲が目標だった
しかし先月は作れなかった。
ようやく2曲目である。
やっぱり作曲は難しい。
頑張っていいものを作ろうとするのだが、出来てしまうと「こんなものか」とがっかりする。何も作らなければがっかりしないから、何も作らないのが楽だ。
でも、そこで挫けているようではダメだ。
頑張って作曲を続けなければ。
ピアノの練習について(1)
弾けもしないのに楽譜を収集しがちである。
ピアノの遊び弾きを趣味とする人の「あるある」だと思う。
ショパンのエチュード。リスト巡礼の年。ベートーベンソナタ集。どれも最高難度の曲だ。ついでにセロニアス・モンク、ビル・エバンスの採譜集。これも簡単ではない。
一生かかっても弾けるはずがない。
ある時ふと冷静になって、クラシック関係はバッハの平均律1、2巻、ドビュッシーの小品集を残して断捨離した。しばらく後でブラームスの間奏曲Op.117. No.1を弾きたくなってブラームスの小品集を追加。以上。
今はひたすらバッハの平均律を進めている。
バッハの天才に驚き、呆れる毎日である。
白鍵と黒鍵を合わせて12キー。長調と短調で計24。それぞれ前奏曲とフーガで48のピアノ曲集である。
24キーで作曲しようという思いつきは理解できるとして、どの曲も一定のレベル以上にあり、しかも一つ一つ何かしらのアイデアが盛り込まれている。
特に派手なアイデアではないものの、24キーそれぞれ曲の形にするなど尋常ではない。訳がわからない。
脳が違うとしか思えない。
弾いて飽きることがない。
他人の演奏を聞くと途中で飽きて意識が飛ぶんだけどね。
特にフーガはついていけない。3声ですら。
3声の例)
いや、自分で弾いてても3声のフーガは追いきれなくて、訳が分からなくなる。4声、5声しかり。一体、これをどうやって作曲したのか?
5声の例)
自分で弾きながら意識を飛ばすわけにはいかないので、頑張って弾く。指を動かすだけで精一杯である。ほんと、これをどうやって作曲したのか?
ほんとうに飽きない。
しかも、同じコンセプトで2巻目の48曲を作った。
それだけでも呆れるのに、他に文字通り山ほど名曲を作っている。
意味がわからない。
バッハって一体なんなのだ。と思いながら練習する。
すると、次第に作曲欲が失われていく。
平均律だけで満たされ、かつ打ちのめされるのだ。
バッハにも困ったものである。
ピアノの練習について(2)
ピアノを練習していると、ノーミスで弾き切ることと、音楽を表現することは別物だと分かる。
ノーミスで弾き切るためには「ゆっくり確実に反復練習する」という「作業としての練習」に適性があればよい。教えることもできる。
ピアノのノーミス演奏と、創造性や芸術性とは無関係だ。
創造性そのもの、アートの才能そのものを教えることはできない。
そして、ピアノのクラシック演奏は、ノーミスが前提である。
どんなに創造性があろうが、芸術的感性があろうが、ノーミス演奏できないと門前払いだ。
そう思って人の演奏を聞くと納得することが多い。
教師に指示された音価を流れで再生しているだけなのか。
事前の練習を再現しているだけなのか。
あるいは自ら音楽を生み出しているのか。
ノーミス演奏を突き抜ける何かがあるか。
ショパンコンクール。チャイコフスキーコンクール。一発の演奏で見抜くのは難しいんじゃないか。
一発勝負のコンクールでは、むしろ創造性より芸術性より、ノーミス演奏が生き残るんじゃないだろうか。
コンクールが意味を失ってきている気がする。
本職の人から「コンクールがどれほど厳しいものかも知らないくせに。遊び弾き程度の人間が偉そうなことを語るな」と言われたらは素直に謝るけどね。
昔の演奏で十分だな、と思うことが多いのだが、最近は清塚さんのトークと演奏は気に入っている。ハートがあるよね。