僕は万人受けするXXよりも、例えマイナーであってもそこに『僕だけのために存在するような何か』があるようなXXを好む。
XXには映画「小説」「音楽」時には「女性」が入る。何度か引用している村上春樹の文章である。一見気の利いた風だが、当たり前のことを言っている。
当たり前かつ気の利いたことを書くのは結構難しい。当たり前だと思っていたことをうっかりWebにアップしたりすると、頭をかしげられたりひょっとしたら袋叩きにあったりする。当たり前のことをいうためにはまずは当たり前を感じるセンスと当たり前のロジックを組み立てる能力が必要である。
「当たり前っぽい何か」と「当たり前」は違う。ひろゆきホリエモンの「当たり前っぽい何か」は炎上狙いの悪ふざけである。悪質なポピュリズムである。(それにしても二人ともずいぶん長持ちしたものだ。悪質なメディアの利用価値があったのだ)
人はいつか死ぬ。体は次第に衰えていく。「当たり前」に気がつくと、世界が変わる。
僕も一生懸命当たり前で自然な文章を書いているつもりだが、どうしても長くなってしまう。力不足である。当たり前のことを簡潔に書かなければ。少しでも向上しようとブログに取り組んでいる。
まーた長くなった。アニメの話に戻る。
このところ、1.25倍速、1.5倍速、10秒送りなどを駆使し、1日に2〜3エピソード見ている。タイパが云々というより単にせっかちなのだ。恥ずかしい。
選り好みはしない。「くだらない」という感想は封印だ。色々見ていると、優れているアニメと、そうでもないアニメがある。当たり前か。映像表現、人物の心理描写、ストーリーや世界観、この辺りが高いレベルにあると「いいアニメだね」と思える。とはいえ、Netflixでは「そうでもないアニメ」でも一定以上のレベルにある。
映像表現が安っぽくて、心理描写も特筆すべきことなく、ストーリーもあってなきが如し。そんなアニメがダメかというと、そうでもない。制作者が思いを込めて作っていればちゃんと伝わるものである。欠点があっても、ちゃんと面白い。
「蜘蛛ですが、何か」
むしろ傑作アニメかもしれない。転生モノのパロディか。絶対しょーもないだろうなあ、と期待せずに見たら、想定を軽く突き抜けて面白い。休日に取り組んだら止まらず6、7エピソード見てしまった。「蜘蛛子」回の熱量の高さに比べ、人間パートは「まあ大体、ストーリーはこんなことになってますから(仕方ない)」と淡々と展開するだけ。まあ、わかる気がする。「蜘蛛子」を動かしてる方が断然楽しいのだろう。(エピソード23、24がいろんな意味ではちゃめちゃだ
「夏目友人帳」
第一期を見ている。映像表現は古い感じがするものの(10年ひと昔だ)、孤独な思春期の人物描写が良い。雰囲気も素敵である。
「よふかしのうた」
失礼ながら、あまりお金がかかってないんじゃないかと思う。映像表現に目新しいものなく、ストーリーあってなきが如し。しかし、東京郊外ベッドタウンの、深夜の雰囲気がよい。あからさまな「萌え」から距離を取っているのもセンスがいい。
「よかった探し」(これも古いな)をしながらアニメを見ることは、アニメを頑張って作った人の思いを汲み取りながら見ることである。最初の村上春樹の言葉を思い出すのだ。
人がクリエイトしたものを、リスペクトして楽しむ。アニメ鑑賞とは誠に健全な娯楽なのである。
ブログ書きとか作詞作曲とか、僕も頑張らねば。