sakanatonikuの日記

料理、アニメ、映画鑑賞と作詞作曲(趣味)

村上春樹と宮崎駿(長文

久しぶりに腰を据えて文章を書いてみた。ほぼ1日がかりだ。

 

崎?﨑?

目次

 

はじめに

君たちはどう生きるか」を見た。

非常によかった。

宮崎駿のおそらくは最後の長編作品である。それは本当に残念なことではあるが、この作品なら納得するしかない。いや、むしろ感謝しなければならない。ありがとうございます。とスタジオジブリ方面に首を垂れる。

 

「街とその不確かな壁」を読んだのは3ヶ月前だ。

それなりに面白かった。読了した時には「村上春樹がそこまで衰えてなくて良かった」と安心した。

 

今となっては宮崎駿と比べてしまう。二人とも世界的なクリエーターである。最晩年において、一方は「街とその不確かな壁」を作り、一方は「君たちはどう生きるか」を作った。

 

何が違うのか。なぜ違うのか。

 

 

村上春樹宮崎駿の共通点

 

二人とも昔からのモチーフを繰り返し使っている。

 

これはもうそういうもので、古今東西、アーティストたるもの、幼少から抱えるモチーフを繰り返し変奏し、改変し、打ち壊しながら創造していくものである。

 

アーティストの抱える強迫観念的なモチーフへの反復的な取り組みこそが彼・彼女のスタイルと呼ばれる。生み出した作品に連続性や何らかの統一性のないアーティストがいるだろうか?

 

村上春樹であれば、壁と壁抜けであり、深い穴であり、(側から見ると少し奇妙な)恋愛であり、何かに囲まれ閉じた世界であり、双子や羊男的な存在であり、少女であり(まあね)、父であり母である(まあね)。他にも色々。You name it。

 

宮崎駿であれば、美少女であり(まあね)、母性と母親であり(ちなみに父親像は希薄だ)、飛行機であり、、、ああ、いくらでも思いつく。ジブリ作品に幾度も現れるコアイメージを全て挙げるわけにはいかない。

 

一方で、最近の二人の違いは大きい。

 

どうやら作品の「パワー」が違うと言わざるを得ない。なぜだろう?才能の違いか?器の違いか?あるいは業(カルマ)?

 

 

村上春樹の最高傑作?

 

いろんな意見があるのは承知だ。個人的には敢えて「羊をめぐる冒険」を推す。おそらくは最後の手書き(ワープロを使わない)作品の一つで、簡潔な文体も世界観もぶっ飛んだストーリーも大好きである。手書きであの物語を生み出した事に、僕は村上春樹の力量を見る。

 

では、一番「熱量と物量」のある作品は何か?やはり「ねじまき鳥クロニクル」であろう。作者ののめり込み具合、イメージの多様さ。奇怪さと巨大さ。全体像の捉え所のなさは突出している。

 

「ねじまき鳥」を頂点として「海辺のカフカ」と「1Q84」では熱量が下がってきた(と同時に徐々に小さくまとまってきた)と僕は見る。それでも(ありがたいことに)両者はまだまだ傑作である。読者を異世界に放り出すパワーは衰えていない。

 

その後の「騎士団長殺し」からはどうやら「枯れた」雰囲気が出てきた。熱量は平熱に近い。深い穴や洞窟、絵画から抜け出した人物の奇怪な描写は流石だが、なんとなく筋が通ってしまっている。構成はそれほど破綻せず、均等なリズムで進行し、穏やかに着地している。何より著者の視点が以前の作品よりも冷めている。三人称的な味わいがある。

 

ちなみに「騎士団長殺し」は僕の好きな作品とは言えないが、英訳の朗読は入眠には最適で、何度も繰り返し聴いている。残虐度が希薄で、性的シーンも少なく、登場人物の葛藤も少ない。比較的平穏な心持ちで聴ける。英語の勉強にもなる。同じ理由で「ピンボール」も繰り返し英語の朗読を聴いている。ねじまき鳥は流石にしんどい。(笠原メイの章を男が甲高い裏声で読み上げるのがイタすぎる、というのもある)

 

「街とその不確かな壁」。確かに悪くはない。最後まで楽しく読み切った。でも熱量は「騎士団長殺し」と変わらず。平熱で物語は進み、心やすくまとまる。リズムは一定で、構成はバランスが取れている。英訳の朗読が出たら買うつもりだ。入眠に最適であると約束されたようなものだ。

 

逆に言えば「騎士団長殺し」も「街とその不確かな壁」も、心を乱すような作品ではないことになる。

 

 

村上春樹作品はどう変わったのか?

 

結論から言うと「ねじまき鳥」以降、ブレーキの効きが良くなってしまったと思う。

 

具体的には文章が綺麗にまとまるようになった。「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」以来散見された冗長な描写が削られ、均等なテンポで語られるようになった。接続詞や助詞にも気が配られている。腕の良い美容師あるいは庭師がするような、刈り込まれた「良い」文章である。

 

しかし、その「良い」文章は必然的に熱量や混沌も削ってしまう。全体が整理整頓されていく。チョキチョキと清潔な予定調和が構築されていく。(安部公房の悪文は熱量と混沌に直結しているではないか

 

アクセルとブレーキが上手く拮抗していたのは1Q84まで。「騎士団長」ではブレーキの方が上回ってしまった。「街とその不確かな壁」も然り。

 

彼の作品からパワーが失われた原因は「良い文章を書く」というブレーキだろうと僕は思う。かつての作品が好きな僕としては、それを「呪い」と呼びたいくらいだが。

 

 

宮崎駿の最高傑作?

 

皆さんが好きな作品を「最高傑作」と思えばよい。終了。

 

僕にとっても「これが最高傑作」という作品はない。中学生時代の僕を打ちのめした「ラピュタ」は外せない。トトロは無論、魔女の宅急便(比較的「でき」は良くないと思うけど1年(!)で作るのは本当に大変だったろう)も僕にとっては忘れられない作品だ。もののけ姫しかり千と千尋しかり。いつも僕の精神の滋養になってくれた。

 

 

宮崎駿はどう変わったのか?

 

宮崎駿の作品を過度に抽象化すると

「圧倒的に美しい or かっこいい or 感動的 or 幻想的 etc な断片的シーンが次々とスピーディに重なって行くのだが、それらが必ずしも整合しないため、最後には訳がわからなくなりつつラストに雪崩れ込み、よく分からないまま終わる」

ということになる。

 

その「訳が分からないまま雪崩れ込む」のがジブリ作品の強烈なスピード感を生み出す。ナウシカラピュタ、魔女宅。トトロも例外ではない。物語として整合するかはあなたまかせ運任せ。(だから胡散臭い都市伝説やら怪しい解釈が出てくる

 

村上春樹が次第に囚われていった(ように見える)「ブレーキ」なるものは、宮崎作品ではあまり顕在化しない。

 

強いて言えば「紅の豚」「耳すま」「もののけ」あたりに「ブレーキ」を見ることは可能かもしれない。比較的破綻せずにストーリーが進むからだ。でもその展開にはどこか危うさやアンバランスさを含んでいる。

 

ところが、その後の「千と千尋」「ハウル」「ポニョ」には相変わらず混沌としたスピード感があり、宮崎駿にブレーキなし!と確信せしめるものである。

 

問題は「風立ちぬ」である。

 

作品自体は悪くない。よくできたメロドラマであり、ハードワーカーを美化した昭和の青春懐古録であった。

 

そして僕は「ああ、終わったな」と感じた。かつての宮崎駿の想像力の爆発(それに由来する混沌とスピード)が、この作品では失われてしまった。僕はその原因を「老い」にあると推測したのだ。

 

しゃーない。もう随分なお年だから。この作品を見られただけでもありがたいと思わねば。

 

と思っていたら「君たちはどう生きるか」である。

 

僕は甘かった。分かっていなかった。宮崎駿は健在であった。相変わらず破綻していた。相変わらずメチャクチャであった。しかも、そのタガが外れていた。ポニョのように無理やり回収することもなく、ラストで強引に落とし、放り出してくれた。

 

これそ宮崎駿である。最後の(残念ながらおそらく最後の)作品にふさわしい。

 

 

村上春樹宮崎駿の違い

 

村上春樹は文筆家であり、宮崎駿はアニメーターである。

 

何よりこの違いが大きい。当たり前だが大きな違いだ。

 

文筆家は文章を通して別の世界を見せる。その「別世界への入り口」でしかない文章の端麗さに囚われ、拘ってしまうと、肝心のその先が褪せてくるのは必然である。残念ながら、ねじまき鳥クロニクルから後の作品からは、どうしても「『良い文章を書く』という呪いに囚われてしまった村上春樹」が見えてしまうのだ。

 

幸いなことに宮崎駿にはそのような呪いは効かない。美しい映像は、そのまま宮崎ワールドへの入り口である。彼はずっと美しい映像を求めてきたし「君たちは」でも変わらない。

 

次の違い。

 

村上春樹の本質はストーリーテラーであり、宮崎駿の本質はどうしたってアニメーターである。

 

ストーリーテラーは、神話・昔話・呪い・祝福等々の言葉の預言者(預かる)だと僕は思う。深く精神の闇に下り、人類に通底している普遍のストーリーを聴く。その後で現実世界に戻り、深淵で聴いたストーリーを人々に語る。それがストーリーテラーである。表面的な文章に囚われるべきではないのだ。若い頃のように、せいぜい「文体」のこだわりに止まるべきだったのではないか。

 

宮崎駿ストーリーテラーであろうとしない。おそらく彼の前にあるのはいくつもの強烈なイメージと動画カットである。言語化以前のカオスである。予算と締切に終われて苦しみながら、それらを組み合わせ、作品を絞り出す。何か一貫した物語を提示するには個別のイメージが飛翔し過ぎ、全体のイメージが巨大過ぎる。そして時間が短すぎる。

 

面白いことに、彼が苦しみながらまとめた2時間からは、人の心の深い琴線に触れる、普遍的なストーリーを読み取ることができる。なんだかよく分からないが、何かすごいものが提示された気がするのである。そこには容易には言語化されない(おそらくは安易に言語化した途端に失われる)混沌とした、それでもソリッドなストーリーが、通奏低音のように流れている。宮崎駿が自らの血肉を切り出すが如く搾り出した時間から、やはり我々は一級のストーリーを感じるのだ。客観的に言語化され得る形では提示されからこそ、皆好き勝手に解釈して楽しめるのだ。

 

 

まとめ

 

宮崎駿はやっぱりすごかった。(残念ながらおそらくは)最後に「君たちはどう生きるか」を同時代に見られてよかった。感謝である。

 

一方、村上春樹は「良い文章」の呪いに嵌ってしまったように思う。

 

年齢的には次回作を期待してもバチは当たるまい。でも、1Q84以前のようなパワーのある混沌とした作品は期待できない気がする。力量はあるはずだが(そう信じる)、呪いが邪魔をするのだ。

 

また何年後かに村上春樹の新作を読むことができて、かつ、この予想が裏切られることを切に願う。

 

 

 

参考)この文章を書くにあたって、主要な(僕にとって)作品を以下にメモしたのを残しておく。

 

村上春樹 1949年生まれ

1979年 風の歌を聴け

1980年 1973年のピンボール

1982年 羊をめぐる冒険

1985年 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

1987年  ノルウェイの森

1988年 ダンス・ダンス・ダンス

1994年 ねじまき鳥クロニクル

2002年 海辺のカフカ

2009年 1Q84

2017年 騎士団長殺し

2023年 街とその不確かな壁

 

 

宮崎駿 1941年生まれ

1979年 ルパン三世 カリオストロの城

1984年 風の谷のナウシカ

1986年 天空の城ラピュタ

1988年 となりのトトロ

1989年 魔女の宅急便

1992年 紅の豚

1995年 耳をすませば

1997年 もののけ姫

2001年 千と千尋の神隠し

2004年 ハウルの動く城

2008年 崖の上のポニョ

2013年 風立ちぬ

2023年 君たちはどう生きるか