原因と結果について
自由意志が《原因》であり、《結果》が生まれる。結果を左右するのはその人の努力。
だから《結果》はその人の責任である。
自分の意志と努力が《原因》なのだから。
分かりやすいストーリーだが、実は何の根拠もない。
自由意志は科学的に観測されていない。後付けの哲学的フィクションに過ぎない。
努力は全然公平じゃない。環境と才能である。
努力したくてもできない環境の人がいる。
人によっては無駄な努力もある。
《原因》と《結果》だって怪しいものだ。
人はしばしば、うっかり/わざと原因と結果を取り違える。
代々政治家の「家」に生まれた子供が、やはり政治家になった。
本人は自分が政治家になったのは、自らの資質と努力が《原因》だと思うだろう。
周りから見れば政治家の子供という時点で《結果》が決まったようなものだ。
どっちもどっちである。
「今のお前は、かつてのお前自身の意志と努力の《結果》なんだよ!」と責められたとして、そりゃ少しはそういうのもあるかもしれないが、そればっかりじゃないだろう。という話だ。
オータニさんになろうという志を立てて、すさまじい努力をしても、オータニさんになれるわけではないのだから。
意志と努力を前提にするなら、自己責任論が出てくる。
自己責任論は成功者を傲慢にし、失敗した人を貶める。
不運な人を叩く残酷な武器にもなる。
ろくなもんじゃない。
若い頃は楽観的で元気なものだから自由意志や努力、自己責任をすんなり呑める。「やってやろうじゃねーか」である。
僕もそのノリで生きてきた。
自由意志、努力、自己責任。
今振り返ってみればすべて胡散臭い。
どれも既得権益層や恵まれた環境で育った人たちが得する概念じゃないか。
どれもスタートが恵まれない人たちには残酷な言葉じゃないか。
なんだか、騙されてたな。
自分を追い詰めるだけの、墓穴を掘る考え方だった。と今は思う。
でもまあ、若い頃に「成功するのに努力も選択もあまり関係なくて、結局のところは実家が太いとかコネがあるとか、そもそもが恵まれてる奴が成功するんだよね」と聞かされても気に入らないのが当然だ。若い人たちは好んで自分を追い詰めるフィクションを受け入れ、墓穴を掘るものなのだろう。それが若さなのだろう。
といっても「努力してもしょうがない」という話でもないし「選択に意味はない」という話でもない。
生まれながらに恵まれた人を憎んだりしても時間の無駄だ。
なるべくいい選択するために情報を探すし、頭も使う。
逃げるわけにはいかない。
意志と努力を絶対視しないだけだ。
限られた情報、限られた能力で、何かしら行動せざるをえないのだから。
ほとんどの意思決定は大した結果の違いを生まないけれど、重大な結果が予測されることもたまにある。
そんな時に意志とか自己責任とかいった胡散臭い概念は捨てて、次にどうするか、サイコロに任せて、易経に諮ってみる。そういうのも味があってよいのではないか、と思い始めた昨今なのである。これも歳のせい?
補記)
そういえば村上春樹の小説の主人公は、困難に直面した時に、あえて行動を起こさず、ひたすら「何か」を待ち続けることが多い。そして必ず「何か」は起こり、それは常に暗示的である。
物語の主人公が消極的というのはかえってユニークな態度である※。超越的な外部からもたらされる暗示を待つことは、「占い」に諮ってみるのに近いかもしれない。
※ 彼が一人っ子だからというのも無関係ではないとは思う。長男長女なら無理にでも足掻く傾向があるはずだ。でもまあ、こういう解釈は野暮だよね
※「ノルウェイの森」ワタナベ君が「旅」に出たのは、「ねじまき鳥」で主人公が「井戸」に潜ったのと同じじゃないかと思う